55 ごぜさん

55 ごぜさん

 春風に乗って独特な三味線の音色が聞えてきました。毎年、春になるときまってやってくる"ごぜさん"です。
 人家の軒先に立って三味線をひきながら唄をうたい、なにがしかの金品をもらう遊芸をなりわいとした女の人達を、この辺りではこぜさん、ごぜばあさん、或はこぜの坊などと呼んでいました。
 娯楽の乏しい時代でしたから、日頃農作業や機織りで忙しい農家の人達にとって、居ながらで聞く事の出来るごぜの唄は楽しみの一つでもありました。
 こぜ達は、丸まげや銀杏返しに髪を結い、ちょっとしゃれた木綿のきものを着ていました。きちんと帯しめ手拭を姉さんかぶりにして駒下駄をはいた人、裾をはしょって、けだし、脚絆をつけてぞうりをはき笠をかぶった人など、身なりはさまざまですが、申し合わせたように身のまわりの品を入れたずだ袋を肩からぶらさげたり、大きな風呂敷を背中に斜めにしょったりしていました。ですから大きな荷物をしょっていると「まるでごぜのようだ」などと笑われたものでした。

 ごぜといっても目の不自由な人は少く、ほとんどが目明きの人達で、二、三人連立ってやってきました。三味線を抱えてひきながら歩くので、子供達はおもしろがって後からついていきます。
 家の前に来ると門口に立って「唄わせてください」と一言ことわってから、義太夫のような節まわしでほんのひとふし唄って聞かせました。声もよくとても上手だったそうです。唄い終ると赤い銭(一銭銅貨)を一つか二つ、時にはお米をもらうなどして隣から隣へと一軒一軒流して歩きました。中には、ひいきのこぜさんを座敷に上げて、悲しい物語唄などたっぷり聞いてお金をはずむ人もあったようです。

 ごぜ達は芸人としてのプライドもあり礼儀正しく振舞っていましたから、応対する側もそれなりに接して、もらい人(こじき)とは違った扱いでさげすんだ気持はありませんでした。一日中門付けをして歩き、夕方には常宿にしている家に落つきます。当時は「ごぜを泊めると養蚕がよく出来る」といわれていましたから、大きな養蚕農家では喜んでごぜを泊めていました。夜になると近所の女衆達が大勢集ってきて、それぞれにお金をあげては、段物やなっちょらん節、さのさ節などを聞いて楽しみました。ごぜ達は話題が豊富で話術もうまく、夜遅くまで四方山話に花を咲かせてなごやかにだんらんの時を過しました。
 しかし、中には泊めてくれる家もなく墓地のお堂で一夜を明かす気の毒なごぜもいました。めくらで、いか見るからに汚ない身なりをして、こわれかけた三味線を如何にも物悲しくベカンカベカンカとひきながら、夕暮の中を「泊めてください」とたのみ歩く姿がとてもあわれでした。
 大正時代には、よくごぜの姿を見かけたものでしたが、昭和のはじめ頃から次第に見られなくなったということです。(『東大和のよもやまばなし』p121~122)